1962年生まれ。長崎県出身。
92年、初の劇場公開映画『二十才の微熱』は、劇場記録を塗り替える大ヒット記録。
2作目の『渚のシンドバッド』(95’)は、ロッテルダム国際映画祭グランプリ他、数々の賞に輝いた。
人とのつながりを求めて子供を作ろうとする女性とゲイカップルの姿を描いた3作目『ハッシュ!』(02’)は、第54回カンヌ国際映画祭監督週間に正式招待され、世界69各国以上の国で公開。国内でも、文化庁優秀映画大賞をはじめ数々の賞を受賞。
6年振りの新作となった『ぐるりのこと。』(08’)は、女優・木村多江に数多くの
女優賞を、リリー・フランキーには新人賞をもたらし、その演出力が高く評価された。
7年ぶりの長編となった『恋人たち』(15’)は、第89回キネマ旬報ベスト・テン第1位を獲得したほか、数多くの映画賞に輝いた。
2023年01月18日
新年早々に訃報が届いた。2022年12月17日、映画監督 斎藤久志、食道がんにより永眠。享年64歳。連絡をくれたのは知己朋友の映画監督 成島出である(以下、敬称略)。
斎藤については、コアな日本映画ファンの方はご存知かもしれない。東出昌大主演の『草の響き』が遺作となった。
斎藤と私の付き合いは、大阪芸大時代の同級生として始まる。そこで共に映画を学び、自主映画を作っていく仲間になっていくのだが、斎藤は映画にも詳しく口も立ったので皆から一目置かれる存在だった。現役組より4歳も年上だったことも影響していたかもしれない。
一度こんなことがあった。〝将来映画監督になる″などという大志もない私は、何を作っていいかも分からず、特撮好きだったこともありヒーロー物を撮ろうとしたことがあった。すると「逃避するな!」と斎藤から一喝。直ぐに『橋口を救う十冊の本』という手紙が送られてきた。そこには開高健、橋本治、大島弓子などの本のリストが列挙してあり(後は忘れてしまった。)、それらを読んで「覚醒しろ」と言うのだった。
当時は、『日本映像フェスティバル』と現在も続く『ぴあフィルムフェスティバル』という2大コンテストがあり、前者はメジャー感もあり賞金100万円だったが、ぴあに入選する方が皆の憧れだったように思う。
ほどなくして、その『ぴあ~』に斎藤の8ミリ作品が長谷川和彦監督推薦で入選しスカラシップの権利を得た。長谷川和彦監督というカリスマに気に入られて、次作の脚本への協力を依頼されたと意気揚々として話していた斎藤の姿はよく覚えている。映画界入りの足掛かりを得て、監督としてデビューした自分の未来を確実に手にしたと思っていたことだろう。周りの仲間も、`斎藤は映画監督になるだろう′と当たり前の様に思っていたから、ぴあの入選も驚きはなかった。
成島との出会いは、‘86年のぴあフィルムフェスティバル。私と成島の作品が入選したことが縁で、斎藤も含めた三人が顔を合わせることになる。その時の成島の印象は、骨太な作品と本人の強面な風貌と相まって、軟弱なことを言うと怒られそうな近寄りがたい感じで緊張したものだった。(ちなみに、その時のぴあには、他に平野勝之、園子温、岩井俊二がいた。)
それから37年近い年月が流れた。
「斎藤さんが死んだ。お前と会いたい」
成島から年明けに連絡をもらい初めてお互いに胸襟を開いて話をした。不思議な感覚だった。まるで昨日、文芸坐地下でお互いの映画を観た直後に感想を言い合うような熱量で話をする。お互い映画界に身を置いた数十年の時間よりも、20代の青春期のある一瞬が濃密に自分の核を作っていたことに改めて気づかされる。
「去年会ったのが最後だった。娘が産まれててさ、その赤ちゃんが本当に可愛いんだよ。昔編集さんが使ってたような白い手袋をして抱いてるんだよ。俺も経験したけど、抗がん剤やると手足が本当に冷たくなるんだよ。冷たい手だと娘が可哀そうだから白い手袋をして抱いてるんだよ。それを見たらさ、俺は泣けて仕方なかったよ」
と成島。
六十を過ぎて我が子を授かり、人生の最後の瞬間にかけがえのないものを手にした。そう思うと少しほっとした。
私の二本の自主映画には、斎藤がカメラマンとして参加している。その関わりの中で少なからず影響も受けた。その私が先にデビューして、思いがけずに作品がヒットし脚光を浴びた。成島は、助監督としてキャリアをスタートさせ、現在までの活躍は多くの人が知るところであろう。
「お前は(デビューの)タイミングを逃したなぁ」とさる先輩監督に言われたとポツンと斎藤が漏らしたことがあった。
80年代の空前のアイドルブーム、角川映画をはじめとしたアイドル映画、ドラマの数々。その時代の空気に乗って、少女を主人公にした映画で勝負出来る。`今こそ俺の時代だ′と気が急いていたことは当時から感じていた。しかし、それは叶わなかった。
それどころか、後ろを歩いていたはずの橋口が先にデビューして脚光を浴びる。どこで歯車を違えたのか。まるでパラレルな世界を生きているような感覚ではなかったか?。それは、どうしても受け入れ難いことだったろうと思う。
私がデビューしてからは、会う度に強烈な嫉妬ともとれる言葉をぶつけられることも多くなった。
ある時、「橋口っていいよなぁホモで」と絡まれた。
「何で?」と聞くと、「だって不幸じゃん」と吐き捨てるように言われたことがある。
え?俺って不幸なの?と少し考えて、ああ、そうかと理解出来た。
橋口は絶対的な不幸を持っている。自分は持っていない。橋口はその不幸を売りものにしたから売れた。決して才能の差ではないのだ。そう自分に言い聞かせることで、パラレルに引き裂かれた自分をどうにか収めようと身悶えしていたのだと思う。
私に感情的なしこりがあったわけではないが、斎藤は違ったようだ。そのような経緯もあって自然と疎遠になった。数年前、一度だけフェースブックで簡単な近況のやり取りをしたが、それが最後になった。
「晩年、『俺は一生、自主映画でいいんだ』と斎藤さんが言ったことがあってケンカしたんだよ。あんなに才能があるのに、何を言ってるんだって!」
と成島。
「橋口は不幸だから」とか「一生、自主映画でいい」という屈折と、我が子を白い手袋をして抱き慈しむ。その間で人生の帳尻というものは合ったのだろうか?。愚問だと分かっていても問うてみたくなる。
そして、最後に成島がこう続けた。
「お前、母ちゃん生きてるんだろ?。母ちゃんに会いに行けよ。抱きしめてやれ。たぶんボロボロ泣くよ。そしたら、また映画撮るんだよ。俺はお前の映画が観たいんだよ」
「うん、うん・・」
と相槌を打ちながら電話を切った。
成島自身も二度のがんの闘病を経てもなお一線で映画を撮り続けている。同時代を生き、埃っぽい自主映画から共にキャリアを積んできた同志のような存在だが、お互いに人生の終わり方を意識する年齢になってしまった。その朋友からの言葉は身に染みた。
「映画を撮れよ」という成島への返答として、ここで、中途まで書いて仕上げられなかった本連載の原稿を少し長くなるが併せて追記しておく。映画に取り憑かれ、映画に殉じて、映画に身悶えする、映画監督という人生とはどういうものか感じていただけるかもしれない。そして、これを斎藤久志を送る言葉としたい。
これは、『恋人たち』のオーデションで選ばれた参加者とのリハーサル最終日に僕が話した内容です。
「“魂が宿る”とか、“命を吹き込む”とか、よく言う じゃないですか。“この演技には何かが宿っている”、 “演出家に命を吹き込まれた”とか、そんなことは誰もできないと思います。そんな方法は僕も知りません。僕には方法論もないので、ただ必死にやるだけなんです。何が映画なのか、何が演技なのか。
黒澤明監督が米アカデミー賞で名誉賞をとられた 時のスピーチで、『私はまだ、映画がよく分かっていない』と会場の笑いを誘っていたのを覚えていますが、それは本心だったと思います。大巨匠が余裕を見せて言っているのではなく、黒澤監督は80歳を越えてもなお、“この歳になっても映画 が分からない”と本当に思われていたのではないかと。
それぐらい映画とは、あるいは演技とは、何が正解か分からない。やればやるほど分からない。 映画を撮って編集していても、「これは映画になっているのだろうか?」といつも感じるんです。不安です。
撮って編集すれば映画になると思っている人も多いかもしれないけど、それは大間違い。 いつも「これは映画になってるかなぁ」と不安で不安で仕方がない。
編集でつなぎ始めて、なんとなく途中から大丈夫かなって感じ始めて、ようやく完成した時に、「良かった。映画になっていた」と思うんです。何をもってそう思うのか聞かれても答えられませんが、それが映画か、映画じゃないかってことだけは分かります。
イメージとしては、ディズニー映画に妖精のティンカーベルが出てきますよね。そのティンカーベルの通ったあとにはキラキラした粉が舞う。映画を撮って編集し終えた時に、映画の神様が、あのキラキラとした粉をふわーっと蒔いてくれて、ようやく映画になるようなイメージです。
映画は力ずくで奇跡を起こそうとする博打です。まともな人のやることじゃないです(笑)。明日もよろしくです」
いつも宙に手を伸ばして目に見えないもの、掴めないものをかき集めて何とか形にするような、またそんな日々が始まろうとしている。自分に映画が撮れるのだろうか?。自分を鼓舞してみたり、何か口実を探して逃げ出したくなるような座りの悪い日々が続いている。映画を撮る前は、いつも身がすくむ。
18歳の頃、大学入学のために来阪した時に阿倍野駅でコートの襟を立てたオジサンが近づいて来た。
「大都会に来るとオジサンにナンパされるんだ」とドキドキしていたら、「自衛隊に入らないか?」と声を掛けられた。陸自の人だった。「大学に行くんです」と緊張して答えると、「そうか、頑張ってね」と返した時のオジサンの笑顔をまだ憶えている。
数年前、僕が絶望していた頃、東北で大地震があった。冷たいフローリングの床の上でほとんど寝たきりのようにうずくまり濁った意識の中で、
「映画なんかやったばかりにこんな有様になってしまった。あの時、自衛隊に入っていれば、今この手で直接人を助けられたのに」
と考えても仕方がないことばかり考えて泣き続けたこともあった。
しかし、僕の映画に命を救われた人、生きる支えだと言ってくれる人もいる。映画を撮らないと言い訳もできない。