2014年8月1日

夏の日

 毎年、夏になると自作『渚のシンドバッド』を思いだす。僕も出演者も若かった。若くて、未熟で、弱かったけど、きらきらしていたなぁと。
お互いにまっすぐに、まっすぐに向き合っていた。ピーカンの夏の空へ打ち上ったフライボールを取ろうとして、目をしばつかせながら何とかグローブを差し上げる。
すると、次の瞬間、バンッ!と皮打つ音とともに、ジーンと掌から体全体に痺れが広がっていく。照れたり、言い淀む暇などない。ストーンとお互いの胸の中へ球が飛び込んでくる。大人の事情も嘘も入り込む余地などない。そんな、映画だった。
 長崎でのロケ中、毎晩ホテルの僕の部屋へ、6人の出演者が代わる代わる訪れ、悩みをごとを相談していく。中には感極まり泣き出す子もいた。特に、清水さん役の高田久美はよく泣いてたなぁ(笑)。
夜毎の鳴き声を聞きつけたスタッフの間では、「また出演者が泣いている。監督がしごいているらしい。可哀そうに」という噂が広まり、白い目で見られたが大きな誤解である。みんな、演技に関する悩みというより、十代の自分の悩みを打ち明けて勝手に泣いていたのである。
「明日も早いし早く寝たいなぁ」とアクビを飲み込みながら、「ふんふん」と相槌を打つ。
そんな毎日が、どんなに幸福だったか。
「ああ、僕は、今、この子の心に触っているな」と、そんなことを日々、実感しながらの撮影だった。当時から、「この先、何本映画を作るか分からないけど、こんな風にお互いの心に触るように映画を作れることはないだろう。これは、十代の彼らと、今の僕だから出来ることなんだ」と感じていた。次の瞬間は、すぐに失われるかもしれないもの。今となっては笑っちゃうくらい情けなくて、しかし、かけがえのないもの。そんな夏の日の断片を一生懸命拾い集めていたように思う。
 僕の部屋の窓辺には一枚の写真とソフトドリンクの小瓶が飾ってある。出演者6人と地べたに座ってロケ弁を食べている色あせた写真。映画の人物同様、みんな(僕も含めて)まだ人生など始っていない。子供の時間と大人の時間の狭間にいて、照れくさそうに、そして頼りなさそうに笑っている写真。小瓶の方には、あゆみ(浜崎あゆみ)が詰めて渡してくれた、撮影現場の海岸の砂が詰まっている。
息が詰まった時、自然とそこへ目が行く。そこには、掛け値なしにまっすぐだった時間がある。すると、季節に関係なく、あの夏の日の空気がよみがえりふうっと息をする。
当時の彼等と同じ年で自主映画を初めて、いつも自分を追い詰めるように作品を作ってきて、初めて映画を作ることが幸福だと感じたのが、この『渚のシンドバッド』という映画だった。
 映画の完成後、しばらくしてからあゆみからファックスが届いた。
「私は、この映画をまだ見直すことが出来ません。美しすぎるから」と。
あれから十数年経つが、僕も同じ気持ちだ。十代の頃、あるいは人生の出会いのある瞬間、その時にしかない感情。何とも形容しがたい、でも、それは確かにあっと思える何か。
僕も含めて、出演者6人のみんなの“何か”が、あの映画には映っている。その何かを、人は青春と呼ぶのかもしれない。