2020年04月13日

『喋楽苦2』に寄せて

2012年のイベント『木下惠介生誕100年記念シンポジウム』で、直木賞作家の長部日出雄さん、ベルリン国際映画祭フォーラム部門創設者のウルリッヒ・グレゴールさん、脚本家の山田太一さんとご一緒した。2018年に長谷部さんは故人となられたんですね。山田さんは、一度倒れられましたが、現在はお元気に過ごされているそうです。グレゴールさんは、『二十歳の微熱』をいち早くベルリン映画祭に招待してくれた(当時)ディレクターで、20年ぶりに懐かしく再会しました。
 この時に初めて敬愛する山田太一さんとお会いした。一緒に登壇とのことで緊張して会場に向かったが、開口一番「『ぐるりのこと。』はいい映画でございましたねぇ」とあの穏やかな口調で声を掛けていただき感激しました。学生の頃、『北の国から』と山田さんの『想い出づくり』が裏番組同士で放映が始まりました。今思えば贅沢な時間でした。『想い出づくり』は今でも見返します。人の心の中にあって中々形容しづらい感情を形にして見せてくれる。嗚呼確かに自分にもそういう感情はあると実感させられるセリフの数々に「こんな人間の描き方もあるのか」と衝撃をうけました。
 その席上、この連載でも触れた『衝動殺人 息子よ』('79年)の話をさせていただいた。理不尽な通り魔殺人によって命を絶たれた息子の無念を晴らすために、被害者を救済する法整備のために奔走する両親の姿を描いた木下恵介監督晩年の傑作である。
まだ自主映画を始める前の中学生の頃に地元の松竹の映画館の一番後ろの席で鑑賞。ハンカチ三枚分は泣いた。直前に両親が離婚していたので、家族を描いた映画に何か慰めを求めていたのだろう。当時は、難しい社会的なテーマは分からない。ただ、子供のために奔走して最後は過労で死んでいく父親の姿が強く印象に残った。
「子供のために死ぬまでやるのか?」。その疑問とも感動とも違う処理できない感情は、その後数十年、私の胸の中に残り続けた。
2013年の木下恵介生誕100年プロジェクトに関わる中で、松竹の方から生前の木下監督のインタビュー映像を参考資料として頂いた。その一つにこんな言葉があった。
「私は両親に溺愛されて育ちました。周囲の人に諭されても両親は私を溺愛した。だから、私はそれが愛情だと思う」。きっぱりと答えている木下監督の姿を見て、私の時間が数十年前の映画館の暗闇まで一気に巻き戻されるような不思議な感覚に陥った。
「子供のために死ぬまでやる」、それが親の愛情である。その事を木下監督は本気で信じ、『衝動殺人 息子よ』という映画を作られた。そして、作者が作品に込めたその想いというものは、映画のえの字も知らなかった田舎の少年の心に届いて、その後何十年も少年の胸の中にあり続けたのだ。この真摯な物作りをすればきちんと観客に届くという当たり前のような事実は、物作りへの勇気を貰うような体験だった。
イベント終了後、山田さんに「お話がお上手ですね」と声を掛けられて大変恐縮した。木下組の助監督経験もある山田さんのお話は楽しく、特に『楢山節考』のセットの雪降らしをいきなり任されて、降らし過ぎて木下監督に怒鳴られた話に会場は大きな笑いに包まれていた。

『喋楽苦2』のDVDが発売された。今回は木村多江さんを迎え、リリー・フランキーさんとのトリオでお届けする。一連の木下映画のお仕事に関わる中で小豆島へは三度ほどお邪魔している。毎回、暖かく迎えて頂き楽しい思い出となっているが、信頼するお二人との旅はいっそう楽しいものになった。相変わらず軽妙なリリーさんと木村さんの飾らない人間味に会場は最後まで温かな笑いに包まれていた。改めて木下映画に触れて学ばされた様々なことと、それを通して出来たご縁に感謝している。