1962年生まれ。長崎県出身。
92年、初の劇場公開映画『二十才の微熱』は、劇場記録を塗り替える大ヒット記録。
2作目の『渚のシンドバッド』(95’)は、ロッテルダム国際映画祭グランプリ他、数々の賞に輝いた。
人とのつながりを求めて子供を作ろうとする女性とゲイカップルの姿を描いた3作目『ハッシュ!』(02’)は、第54回カンヌ国際映画祭監督週間に正式招待され、世界69各国以上の国で公開。国内でも、文化庁優秀映画大賞をはじめ数々の賞を受賞。
6年振りの新作となった『ぐるりのこと。』(08’)は、女優・木村多江に数多くの
女優賞を、リリー・フランキーには新人賞をもたらし、その演出力が高く評価された。
7年ぶりの長編となった『恋人たち』(15’)は、第89回キネマ旬報ベスト・テン第1位を獲得したほか、数多くの映画賞に輝いた。
2013年6月1日
小松崎茂という画家の名前をご存じだろうか?。
ある人は、その人を天才と呼び、ある人は奇人と呼ぶ。マンガ家の故・手塚治、藤子・F・不二雄から最大の賛辞を贈られた絵物語作家であり、昭和の少年少女の夢を支え続けた人物である。
幼いころから画家に憧れ、戦時中、その詳細なメカ描写の才能を買われて描いた画が戦意高揚ポスターとして使われたこともあった。
無名時代の若かりし作家・水上勉から「お前は戦犯だ」と言葉を投げつけられ、深い自責の念から一旦は筆を折るが、戦後、食べる物もなく進駐軍に物乞いをする多くの子供たちの姿に嘆き、「子供たちが生きていくために大切な支えになる絵を描こう。生まれ変わって絵を描こう」と決心する。
それからは、戦後の空前の出版ブームの中、絵物語『地球SOS』という大ヒット作を手がけ、その決心どおり、娯楽のなかった時代の少年少女たちに大きな夢と希望を与え続けた。絵物語に全くなじみのない方でも、あのサンダーバードのプラモデルの箱絵というと思い当たる方もいらっしゃるのではないだろうか?。
ロケット噴射の轟音が聞こえてきそうな迫力満点の絵柄に惹かれ、僕もお小遣いを工面してはプラモデルを買いに駄菓子屋へ通ったものである。
僕が、故・小松崎茂氏の絵に惹かれるのは、その力強さだけではなく、ひたすら明るい未来の姿を描き続けたというところだ。
ときに、その仕事量は、狂気とも呼べるもので、三日三晩描き続け、ペンだこで腫れあがった手を金だらいの水につけるとジューッと音がした、という伝説まであるほど。
「自分は戦犯かもしれない。自分の描いた絵のせいで何万という若者が命を失ったのだ」という想いを、生涯、氏は忘れることはなかったと聞くが、そのなりふり構わずに描き続けた姿の奥には、戦死者への追悼の念と、明るい未来を願う気持ちがあったのではないかと想像する。
最近、あるお仕事をきっかけに、その一番弟子だった根本圭介さんという方とお会いする機会を得た。
ご高齢であるが、まだまだお元気で、当時のことを話しだすと止まらない楽しい方だ。戦後、物はなくみんな腹を空かせてはいたが、生きるエネルギーだけはあって、師匠や弟子仲間と共に破竹の勢いで数々の作品を仕上げていった当時のお話は、聞いていて胸がわくわくするものばかり。
全て故人であるが、「世界に誇れる日本車を作るんだ!」と小松崎氏にデザインを依頼した本田技研創業者の本田宗一郎。世界の円谷こと、特技監督・円谷英二と共に作り上げていった映画黄金期の特撮映画の逸話など、小松崎氏と一緒に根本さんが駆け抜けてきた昭和という時代は、戦後の日本が大きく未来へ向かって開かれていく彩りに溢れている。
3・11の震災を経て、未だ大きな不安の中にある日本の中にあって、どうすればこれからの日本、あるいは我々日本人が希望を持って生きていけるか想いを馳せる時、根本さんが話される、小松崎茂が生きた時代、そして、バカ正直ともいえる仕事への姿勢は、見つめなおす価値があるように思えてならなかった。