1962年生まれ。長崎県出身。
92年、初の劇場公開映画『二十才の微熱』は、劇場記録を塗り替える大ヒット記録。
2作目の『渚のシンドバッド』(95’)は、ロッテルダム国際映画祭グランプリ他、数々の賞に輝いた。
人とのつながりを求めて子供を作ろうとする女性とゲイカップルの姿を描いた3作目『ハッシュ!』(02’)は、第54回カンヌ国際映画祭監督週間に正式招待され、世界69各国以上の国で公開。国内でも、文化庁優秀映画大賞をはじめ数々の賞を受賞。
6年振りの新作となった『ぐるりのこと。』(08’)は、女優・木村多江に数多くの
女優賞を、リリー・フランキーには新人賞をもたらし、その演出力が高く評価された。
7年ぶりの長編となった『恋人たち』(15’)は、第89回キネマ旬報ベスト・テン第1位を獲得したほか、数多くの映画賞に輝いた。
2013年12月1日
初めて上京したのは‘86年のこと。ぴあフィルムフェスティバルに応募した自主映画が入選し、その映画祭に招待されたからである。新幹線を降り立ち、会場となる目的地の池袋・文芸座までどう行っていいものやら、握り締めた『ぴあ』と案内の表示を交互に見ながら東京駅の構内をうろうろしていると、公衆電話で話しているサラリーマンの声が飛び込んできた。
「それさ、〇〇しちゃってよ」「よろしくね」なんて、今にすれば何てことない東京弁のニュアンスに、九州出の田舎者の僕は「東京の人は冷たか」といじけた。
当時の文芸坐は、1階と地階に劇場があって、映画館というより、アングラ芝居でもやってそうな埃っぽさと熱気があったように記憶している。
作品の上映、観客との熱い質疑応答。その後は、1階の喫茶店で同じ入選監督達と何時間も映画について語り、夜は近所のピア関係者の家にみんなで雑魚寝する。そんな数日間のなんと楽しかったことか!。
僕は、大人しい子供だった。自主映画を始めて、芸大の映画学科へ進学しようかという時、父親に「お前は“平凡な人間”なんだから、大学を出たら長崎に戻ってお父さんの仕事を継げ」と言われた。仕事といっても保険の外交なんだが、自分でも「そうなるだろうな」と思っていた。しかし、反面、「そうなりたくない」と強烈に思う自分もいた。
大学の友人たちの間では、「橋口の映画はつまらない」という安定した評価を得ていたように思う。そんな人間が、そんな人間なりに考えて、自分にしか撮れない映画を撮ろうと思って作った映画が入選した。しかも、あの大島渚監督推薦だという。
その年の入選監督には、成島出、園子温、平野勝之などがいた。みんな現在も一線で活躍している。ちなみに、入選はしていないが、岩井俊二も応募作家の一人だった。岩井君は、この時、選から漏れたことが随分悔しかったらしく、この仕事を始めて偶然にどこかで会っても、しばらく口をきいてくれなかった(笑)。
映画祭の最終日、ピア主催のパーティがあった。そこで、初めて大島監督とお会いした。
何を話したかほとんど覚えていない。しかし、こう言われたことだけは覚えている。おそらく、長崎でのこと、高校の頃、親が離婚したというようなことを、僕が話したのだろう。
監督は、「そうか、君は両親が離婚しているのか・・。でもね、映画監督にとって、思春期の頃に両親が別れるっていうことを経験するのは、とっても大切なことなんだよ」と、本当に優しくおっしゃった。あんな優しい言葉を以来聞いたことがないと思うほど。
大島監督の『ヒュルル・・1985』についての作品評がある。
『この作品には、優れた映画監督が、一生に一度撮れるか撮れないかの青春映画特有の切なさがある』。
嬉しかった。
平凡だった人間が、「自分にも個性というものがあるのだ」と思えた時の喜び。自分が、外の世界に向かって大きく開かれていく感覚。まだぼんやりとしてはいるが、自分という輪郭を持って、スタートラインに立てたような晴れやかさと気恥ずかしさ。
この時の時間、大島監督に掛けていただいた言葉は一生忘れないだろう。
数年前、初めてピア・フィルムフェスティバルの審査をやらせていただいた。本気で観て、良いところ、悪いところを本気で作り手に伝えようと思った。先へ進もうとしている人にとって、若い頃に誰かに掛けてもらう言葉は、一生の傷になったり、一生の宝になったりするからだ。
その時の入選監督の中には、口を尖がらせてむくれる奴もいたが、その後、プロの道へ進んだ、ある若い監督と久しぶりに連絡を取った折、こんなメールが返ってきた。
「プロの世界は厳しくて大変ですが、苦しい思いをするたびに橋口さんの言葉を思い出します」と。
大島監督ほどではないにしろ、ちゃんと伝えられてたのかな?と。ちょっと嬉しかった。まあ、そんな話です(笑)。