2018年4月2日

セクハラ

 ある新聞の取材で。現れた女性記者は、名刺を出すより先にこう宣言した。
「あたし、ウーマンリブなんですよ」と。そして、取材そっちのけで自論をまくしたてた。
「なでしこジャパン。あれって性差別ですよね。男はサムライ、女はなでしこ。国民栄誉賞の副賞は化粧ばけ。どうせ政治家のオヤジが、お前らブスなんだからこれで化粧でもしろよっていう嫌味ですよ!」と言う。
果たして、この主張に何人の人々が共感するであろうか?。枕営業に失敗した女の言いがかりと、深刻な人権侵害も全部ごっちゃにしたような矮小化された議論から何が生み出され、何を勝ち取れるのか?。60年〜70年代に、ほとんどバケモノ扱いされながら女性解放運動で命がけの闘いをしてきた先人は、こんなことのために血を流したのだろうか?と思う。
こんな話を、ドロドロになって映像製作の現場で働いている女子に呟いたところ、キョトンとした顔をされた。
 「あたしレイプされたんですよ」。いきなりのカミングアウトに驚いたが、実際には未遂だったらしい。高校の頃、バイト終わりに駅のロータリーをうろついていたら、顔見知りの先輩に誘われて車で山の中へ連れていかれた。乱暴されそうになったが、メチャクチャ抵抗して山中に逃げ込んだ。暗闇の藪の中を傷だらけになって抜け出た先は、偶然、消防署。通報したら犯人の男はすぐに逮捕。後日、逮捕に協力したことで警察に表彰され金一封を貰う。しかし、レイプされた女=すぐやらせる女というイメージが広まって大損害だと嘆く。
「おかげで彼氏が全然できないすよ」と前段の話などケラケラと笑い飛ばされた。
 僕の女性観は単純である。それは、母である。母は若い頃から鉄火肌で根っからの水商売の女である。僕が中学校の頃、離婚してからも女が一人生きていくために、そりゃ女を最大限使ってサバイバルしてきた。最後は、梅宮辰夫ばりのイケメンのヤクザを捕まえて、組と掛け合って堅気に戻したというから、我が母親ながらその姉御っぷりにたじろいでしまう。元ヤクザ屋さんには、知的障害の幼い娘がいて唯一の気がかりは娘の行く末だけ。面倒をみる人間が必要なので、母はここを抑えた。こういう時の女の嗅覚にはかなわないなと思うが、手がかかる娘の面倒を見てもらってる手前、元ヤクザ屋さんは母に頭があがらない。その母に尻を叩かれてタクシー運転手に転職して一日22時間死に物狂いで働いた結果、一年で千葉県に家を建てた。
そんな母を見て育ったので、女性とは、弱いようでいて実にしたたかで強靭。タフな現実そのもの、という認識が根底にある。
 僕自身、陰湿なパワハラとセクハラを受けて人生を失いかけた経験がある。その身からしたら、昨年のハリウッドのセクハラ騒動を受けての日本マスコミに出てくる話題や、それを自身の政治的主張に利用する当事者を無視した言論の多くは、私こそは誰よりも人権や優しさを理解する美しい人間であるという、自分という美しい城を守るための空疎な闘いに見えている。
 ある寿司屋での話。そこの大将は、長年跡継ぎがいないことに悩んでいた。娘さんがいたので、「お婿さんとれば?」と馴染み客から言われても渋い顔を崩さない。しばらくして店を訪ねると、カウンターに無精髭のイケメンが寿司を握っている。てっきり娘さんが結婚されたんだと思い、「跡継ぎが出来て良かったですね」と軽口をきくと、大将は以前にもまして渋い顔で答えた。
「こいつ、娘だから」。その場にいた全員の動きが面白いように止まった。跡継ぎができたのは良かったけど、娘さんが性転換して息子になったのだと言う。
「痛し痒しだよ」と大将は観念したように笑っていた。
 「生命は生き残る道を探す」とは、映画『ジュラシックパーク』のセリフであるが、現実を生きる人はいつだってタフである。