1962年生まれ。長崎県出身。
92年、初の劇場公開映画『二十才の微熱』は、劇場記録を塗り替える大ヒット記録。
2作目の『渚のシンドバッド』(95’)は、ロッテルダム国際映画祭グランプリ他、数々の賞に輝いた。
人とのつながりを求めて子供を作ろうとする女性とゲイカップルの姿を描いた3作目『ハッシュ!』(02’)は、第54回カンヌ国際映画祭監督週間に正式招待され、世界69各国以上の国で公開。国内でも、文化庁優秀映画大賞をはじめ数々の賞を受賞。
6年振りの新作となった『ぐるりのこと。』(08’)は、女優・木村多江に数多くの
女優賞を、リリー・フランキーには新人賞をもたらし、その演出力が高く評価された。
7年ぶりの長編となった『恋人たち』(15’)は、第89回キネマ旬報ベスト・テン第1位を獲得したほか、数多くの映画賞に輝いた。
2015年2月1日
まだ北千住のぼろアパートに住んでいた十数年前。会長から久しぶりに連絡が入った。
会長とは、芸大時代の同級生で、3畳一間のタコ壺のような大学の寮の部屋で向かい合わせに生活していた。
浜松出身の彼は、何故か゛浜松プロダクションの会長“というあだ名を付けられていた。しかし、その浜松プロが何かの活動をしていたわけでもなく、何をしても怒らないその人柄ゆえか、人が周りに集まるので自然とそう呼ばれていた。
しかし、思い返してみても会長がどんな人だったかよく分からない。友人が酔っ払って部屋に乱入してゲロを吐いても「お〜」とか「う〜」とか(困っていたのだろうか?)言いつつキレることはない。だから、友人たちは年がら年中会長の部屋に入り浸ってはダラダラと暇を潰していた。
そんな会長と数年振りに会うことになった時のこと。千住駅前のカラオケボックスに入ると、会長は虎舞竜の『ロード』をうっすらと涙を浮かべながら歌いだした。突然の訪問と、涙の熱唱の理由を恐る恐る会長に聞いてみた。
すると、「死体を引取りに来たんだよ」という。ギクッとした。
フィリピンパブで知り合ったマリアという女性の弟が急死した。その弟は、東京は阿佐ヶ谷で肉体労働者として働いていたのだが、その遺体の引取りと本国への移送の手続きを女性に頼まれ、東京中を走り回っていたのだそうだ。
「白タクの運ちゃんになるのが夢でさ。いい奴だったなぁ」と、遠い目をして会長は呟いた。僕は、そんな会長を見ながら驚いたが、ちょこっと感動もしていた。
掴みどころのない人だと思っていたけど、会長なりにドラマチックな人生を送っているんだなと。
それから、また数年後。音信も途絶えていた会長から連絡が入った。その頃は、僕が人生のどん底を経験して、もう一度仕事に前向きに取り組もうかとしていた矢先だった。
お互いの数年間の身の上話をする内、会長が地元の浜松で役者のワークショップを開いてくれることになった。そして、僕を講師として招待してくれるという。
実は、会長も地元の小劇団の制作や、時には自分でも舞台に立ったりしているのだそうだ。自ら人前に出ていく人間ではないと思っていたので、またまた驚いたが、喜んで引き受けた。しかし、本当のところは、僕の苦労話を聞いて、会長なりに応援する気持ちでの提案だったと思う。相変わらず、そんなことは表には出さない人だけど。でも、それがとても嬉しかった。
いつも不思議に思うことだけど、こちらの気持ちが内に向いている時は、何日も、長い時では何ヶ月もメール一つ来ない時がある。しかし、気持ちが外に向い出して、誰かのことを思い出したり、あれこれやりたい事を考え始めたりすると、途端に仕事の依頼が来たり、思いもしない誰かから連絡が来たりする。
人の負の感情というのも伝染すると思うけど、前向きなエネルギーというものも確実に誰かが感じ取っているのだと思う。
今年、浜松で開かれたワークショップで久しぶりに会長に再会した。その時、北極にオーロラを単身観に行った話をしてくれた。毎回、この人の話は意表を突いていて可笑しいのだが。
「10日間の滞在中、半分は関空から来た関西のおばちゃん達のツアーと。残り半分は、成田から来た山の手のおばさんのツアーと一緒だった。関西のおばちゃんは、とにかく明るくてずっとしゃべってる。その滞在中、中々観れないオーロラが毎日観れた。入れ替わりに来た山の手のおばさん達は、ツアーやガイドへの不満、誰かの悪口をずっと言ってる。その成田組みの滞在中は、オーロラがピタッと見れなくなってしまった」のだそうだ。
そして、「俺は分かったんだ。橋口、人の前向きなエネルギーは、オーロラを呼ぶんだよ」と確信たっぷりに会長。
「さすがにオーロラはどうかな?」とその時は笑ったが、何か信じたい気もするのだ。