2018年3月19日

今を描く

 3月に行われた第90回アカデミー賞でも主演女優賞などを受賞した映画『スリービルボード』、これには久振りに圧倒された。
 実話ではない。完全なるフィクション。その物語の持つ力、そして物語りを通して観客に世界の有り様とそこに生きる人間の姿を伝えようとする強い意志の力に圧倒される。脚本はあざとい。笑っちゃうくらい。でも、見ている間はそんなことは消し飛んで引き込まれる。映画を支える一級の役者人。全てがプロフェッショナルな仕事だ。今を描くとはどういことか?、その答えがあったようにも思う。
 先のゴールデン・グローブ賞でも主要賞を得た本作だが、その授賞式がセクハラへの抗議一色だったのは記憶に新しいだろう。その件を伝えるTV番組を見ていたら、ある論客が、「このような授賞式を政治的なパフォーマンスの場に使うのはいかがなものか?。だから最近のハリウッド映画はつまらない」と論評していた。セクハラは置いとくとして、つまらないと一括りにするのにはちょっと待てと言いたい。こういう方たちは、邦画に対しても一部の大ヒットした映画だけを取り出して「今時の日本映画は」と語られるのが常だが非常に不見識で迷惑な話である。
200億かけて製作されるアクション大作に目がいくのは仕方ないが、本作の様な、中規模、あるいはそれより低予算で製作されるアメリカ映画の層の厚さと質の高さには、改めて嫉妬と驚きを覚えざるを得ない。
 ファーストシーンから引き込まれる。簡潔、且つ的確に主題を見せていく。語り口に迷いがない。「ああ、この映画は信頼できる」と、すぐに安心して映画に身をゆだねる事が出来る。そして、その引き込む力が最後のカットまで持続する。
 この強い感情を背負って登場するミルドレッドという母親の物語に接することで、我々の持っているモラルや価値観も大きく揺さぶられるだろう。全ての登場人物がユニークな味付けがされ、生き生きと躍動している。見ながら思わず拳を握り締め、やりきれない感情を我が事のように受け止め涙する。物語に飲み込まれてしまう感覚。
これは、まさに映画を観る喜び以外何ものでもないのだ。
 昨年、演出家の木野花さんとお仕事をしたご縁で、舞台の稽古にお邪魔した。役者が役を掴みあぐねている段階から完成を見る過程に触れさせていただく中で、演じる側が役を掴み、確信を持って演技するということが、これほど力が違うのか?と再認識した。まさに、『スリービルボード』における演技は、その力を感じさせてくれる素晴らしいものであった。
 先日、ある映画賞の審査に携わった折、日本映画界の識者と言われる方と、ある邦画について話した。その方は、その映画をこう評して批判した。
「この映画は古い。イジメとか今の問題が入ってない」と。マジで言ってんのかコイツと思った。
では、今を描くとはどういうことだろう?。僕はこう思う。人は世界の中に生きている。どんな境遇の人も世界と繋がっている。だから、個人を見つめていくと、その向こうに大きな世界が見えてくると。
話は戻るが、『スリービルボード』という映画には、トランプ大統領もセクハラも描かれてはいない。しかし、このアメリカの田舎町の名もない母親の格闘の物語は今の世界の有り様である。つまり、“今”を描くということは“普遍”を描くことと同義なのだと分かるのだ。物語を作り続けていくことへ、大きな勇気を貰う映画体験だった。