2017年10月2日


 先の大戦末期の1945年、昭和20年8月9日午前11時02分、長崎に原爆が落ちた。長崎本土から100kmもある五島列島の小さな漁村の港で声があ上がった。「うわ〜、本土が爆撃されよる!」。人々は港に集まり、彼方に立ったキノコ雲を呆然と見ていた。その人々の中に青年時代の僕の父がいた。子供の頃は、夏になるとよく五島の父の実家に海水浴に行った。船で片道6時間以上かかった。そんな遠くの島から見えた巨大なキノコ雲。

  母は長崎本土に居た。幕末に長崎防衛のために造られた俗称『そろばんドック』という湾に面した入り江がある小菅が母の実家だ。今でも船舶を支える枕木の並びがそろばんのように残っている。
 その日、空襲警報が鳴った。瞬間、居合わせた親戚のおばさんが、「春美ちゃん、空襲!」と叫んで母を押入れに押し込んだ。防空壕に走る間もなかった。おばさんと布団をかぶって身を寄せていると襖の隙間に閃光があった。しばらくして、あたりが静まりかえっているので、恐る恐る押入れから出てみた。すると、おばさんも母も煤(すす)で真っ黒になっていて、お互いの姿を見て笑い合ったそうだ。
何故真っ黒になるのか?、きょとんする子供の僕に、「窓を開けたまま蒸気機関車がトンネルに入ると、その煙でお客の顔も真っ黒になるとよ」と母は説明したが、余り実感出来なかった。しかし、今想像すると凄まじいものだったんだと改めて思う。

 母は被爆者である。小さい頃、「自分は被爆者手帳を持ってるから医療費は無料なんだ」と繰り返し聞いた。悲劇であるはずなのに、堂々としている様がずっと不思議だった。僕も被爆2世ということになる。しかし、おかげ様で母子ともに大きな病気もせずに今日まで生きている。
だが、もし空襲警報が鳴らず光を直接浴びていたらどうだろうか?。現在、僕も母もこの世には存在していないだろう。

 「J・アラートが鳴って起こされた」とか、「防空壕もないのに警報は無意味だ」とか、「お小遣いをやって日本を(ミサイルの)標的から外してもらおう」とか。いい加減寝言は止めにしたらどうか?。

 僕たちは、一体何が大切なんだろう?。僕は、自分の人生、自分の生活が大切だ。そして、これからも日本で、日本人の物語を映画にしていきたいと思っている。だから、日本が無くなってもらっては困る。不平不満があるなら、日本を守った上でいくらでも文句を言えばいい。しかし、この日本には国なんか無くても自分は関係ないと思っている人が多数いる。何処にいたって自分は自分だと。本当にそうだろうか?。
自分が寄って立つ場所を無くして何ができるというのだろう。


(東京国際映画祭の4回目は次回掲載いたします。)