2017年2月7日

―東京国際映画祭―

 第一回目の東京国際映画祭は1985年、日本がバブルへ上り詰めていこうという時期に開催された。アジア最大の国際映画祭を目指して、当時『炎のランナー』でアカデミー作品賞を獲ったプロデューサーのデビット・パットナムや大女優のジャンヌ・モローなどが審査員で招かれ、NHKでも特集番組が何本も放送された。
ジャンヌ・モローの基調講演もそのまま放映され、黒澤明監督の『乱』について「クロサワ監督の様な素晴らしいキャリアの持ち主だからこそ創れた映画である」と評していた事は今でも覚えている。
また、ヤングシネマと言われるコンペ部門で、故・相米慎二監督の『台風クラブ』がグランプリを受賞してそれなりに盛り上がったと記憶している。
その頃の僕は、上京して間もなく、単発のアルバイトをしながら自主映画を相変わらずやっていた。
 それから10年後の1995年。『二十才の微熱』の公開後、東宝から「東京国際映画祭に出せる映画が欲しい」との依頼で『渚のシンドバッド』の制作が決まった。3月に依頼を受けて、5月に脚本を書き、6月に準備、7月撮影、8月仕上げ、9月が映画祭という超タイトなスケジュールだった。今だったら、そんな怖いスケジュールの依頼は受けられない。(若かったなぁ・・。)
余談ついでに言うと、『渚〜』の上映会場となったオーチャードホールは、1300人を超える超満員で、その当時時点での映画祭の動員記録だった。上映中も爆笑に次ぐ爆笑で、あまり期待していなかった東宝の重役連中は「こんなにウケけるなんて」と反応の良さにびっくりしていた。
その年のヤングシネマのグランプリは、ブライアン・シンガー監督『ユージュアル・サスペクツ』で、『渚〜』は選から漏れた。漏れたが一向に気にならなかった。
開始から10年、アジア最大の映画祭を目指して始まったはずが、東京国際映画祭はその価値を高められないままでいた。授賞式当日の事はよく覚えている。一般観客と一緒に席についても延々と式が始まらない。何のアナウンスもなく40分近く待たされた。会場がざわついている中、関係者が走り回っている。何事かと思ったら、男女の関係者が、客席の通路で観客に聞こえるような声で理由を立ち話しているのが聞こえてきた。
「ゲストで招待した大物俳優がまだ来ない。不倫がバレてワイドショーに追っかけ回されているので、渋谷中を車で逃げ回っている最中なんだ」と。これを聞いて、怒りよりも何だかがっかりした。そんな事で観客を待たせるのも何だかな話だが、各映画会社の持ち回りの出向で来たようなやる気のない関係者が、観客に聞こえるようにグズグズの話をする。
「ど〜でもいいよ」と思ったが、既に映画祭がグズグズになっていた。これで、権威なんて感じる人がいるだろうか?。

〈次号へつづく〉