2013年11月1日

淀川長治

 『二十才の微熱』を発表したのが30歳の年。その頃は、『将来の目標は映画監督』、なんていう大志すら持っていない、ただの自主映画小僧だった。
そんな僕が、淀川先生と対談することになった。今だったら緊張して大騒ぎだったろうが、当時の僕は、「あ、テレビに出てる“さよなら、さよなら”のおじさんだ」くらいで、リアル徹子の部屋を間近で見る感覚だった。
先生は、邦画の監督とは滅多に対談しなかった方である。対談したのは、黒沢明、宮崎駿、北野武、周防正行くらいではなかろうか。それが、無名の監督と対談したというので、当時、業界ではちょっとした事件だったらしい。
まず、開口一番、先生はおっしゃった。「あたしが、何であんたと対談してるか分かる?」。
「いえ、分かりません」と僕。「あんたには見込みがあるから」と、きっぱりと先生がおっしゃっても、「はぁ」と生返事をしていたことを覚えている。本当にバカだった(笑)。
「『二十才の微熱』見ました。ファーストシーン、最高かと思った。これは溝口(健二)かと。でも、後が駄目。何故だか分かる?」
「いえ、分かりません」
「あんたには、根性がない!」
その後は、1時間ずーっと駄目出しである。あそこが駄目、ここが駄目。先生は、その生涯を映画に捧げられた方である。そんな方に何を言われても腹など立たない。指摘される全てが、自分でも思っていたことだった。ひたすら頷いて聞いている僕に苛立たれたのか?、「どういう映画好きなの?」と先生が聞かれた。
「スターウォーズとか・・」と言うが早いか、「だから駄目なの!」と怒られた。
「あんたは、上っ面の映像のことなんてどうでもいいの!。あんたは、ヴィスコンティや溝口と一緒で、人間のハラワタを掴んで描く人なの!」と。
自分自身ですら、自分の資質というものが分かっていない、まだ映画監督としての自覚すらない人間の本質を見抜く。今更ながら、つくづく凄い方だなと思う。
そして、こうも続けられた。
「三島(由紀夫)読みなさい。歌舞伎見なさい。オペラ見なさい。バレエ見なさい。あんたは、一度映画を選んだんだから最後までおやんなさい。水を飲んでもいい。盗みを働いてもいい。最後までおやんなさい。あんたはやれる」と。
 仕事柄、様々な人に出会う。しかし、自分を一生支えてくれるような出会いにめぐり会うことはそうはない。
この数年、映画も、映画業界も嫌になって本気で止めようと思っていた。本当に止められるのか?、そう自問する中で、先生の言葉を思い出した。
先生は、生涯を映画に捧げられた方。その言葉は厳しいが嘘がない。
「淀川先生が、“あんたはやれる”って言ってたなぁ。先生、嘘つかないもんな。あの淀川先生がやれるっていうんだから、俺やれるのかなぁ?」。・・そう思って、今も映画を続けている。
 対談の最後、「あたしは、明日死ぬかもしれないんだから、何か聞くことないの?」とおっしゃった。バカな青年・橋口は、「別に」と答えた。「じゃ、終わり」と、先生はそのまま立たれて対談をしていた部屋を出て行かれた。先生も、僕も、腕時計は持たず、部屋にも時計はなかった。関係者と一緒にお見送りに部屋を出ると、そこはエレベーターホールであった。先生を乗せたエレベーターの扉が閉まった。ふと、目を上げると、そこの壁に時計があった。対談が始まってから、ぴったり1時間だった。その瞬間、「ああ、これがプロなんだ」と思った。鳥肌が立った。
「僕もプロになりたい」、その時、初めてそう思った。