2015年9月1日

AD時代

  『夕べの秘密』という自主映画が、ぴあフィルムフェスティバルで賞を取った。そして、スカラシップという形で作品を作る権利を得た。『二十才の微熱』を撮ることは決めていたので、ぴあの担当プロデューサーに脚本を見せると、「ホモが分からない」と言う。
 普通の男子大学生が、夜は二丁目で男性相手に体を売っているという当時としては刺激的な内容だ。
「ホモが分からない。何で男なのに男と寝るんだ?。脚本を直してくれ」。その繰り返しで制作は一向に進まなかった。賞を獲り、映画を作るまでに2年半。その間、10回脚本を書き直した。アルバイトしていては脚本が書けない。書いていればお金が無くなる。すっかり困り果てていた頃、テレビ番組のディレクターの仕事の話が来た。
僕は、助監督の経験もない。だから、少しでも映像の仕事の仕方を覚えながら働ければとと知人に頼んで映像関係のアルバイトを探していたのだった。
 時代は、バブルへ上り詰めようという頃。いくらでも仕事はあった。今思うと、とんでもないカメラマンやスタッフもいたが、大した技術は無くても、みんなひくてあまたで、撮影しているそばから大きな携帯(今の若い人は分からないだろうなぁ)で仕事をとっていた。そんな時代だったから、何のキャリアもない僕なんかに話が回ってきたのだろう。
 番組は、ゴールデン番組の中のワンコーナー。東京六大学の学生たちが、東京から青森まで路線バスを乗り継いでレースをするという内容のバラエティである。
何の経験もない僕は、プロデューサーや統括ディレクターに「僕に出来ますかね?」と聞いてみたが、「これは、バラエティではない。大学生のドキュメントだから」と力説された。 僕は、「それなら撮れるかも知れない」と思い不安もあったがやることにした。
 太平洋、中部、日本海コースと三コース、それぞれ二組、六大学のレースで、僕の担当は日本海コースだった。撮影本番までの二ヶ月間、東京から青森まで一人で路線バスを乗り継ぎながら冬の日本海をロケハンをして段取りを決めていく。振り返ってみても、初めてにしては良く働いたと思う。
三コース統括のディレクターは、バラエティや温泉旅物のベテランらしかったが、「俺は、女優の〇〇と二回やった」とそんな話ばかりする人で、僕は、「これがテレビの世界なんだ」なんて愛想笑いで聞いていた。
 ロケ本番当日。担当する二大学の学生達と挨拶を交わした。皆、純粋にレースを楽しもうとしていた。僕も、そんな姿が撮れればいいと思っていた。一斉にレースが始まった。 日本海コースは、東京から一旦群馬から日本海へ抜けるルートを取る。第一のゴールポイントは、群馬の猿ケ京温泉で、どちらか先に指定の温泉に飛び込んだ方が勝ちというものだった。勝ったほうが先に進むのだ。そして、そこで問題が起こった。
 同時に温泉宿に到着した学生達は、先を争って露天風呂に飛び込む。勝敗がつくと、学生達は、体をタオルで拭きながら、「やった!」とか「くっそ〜!」とか盛り上がっていた。その勝敗の結果を東京のプロデューサーに報告すると、直ぐに折り返しがあった。
「番組の大物司会者がA大学出身なので、勝者がB大学では困る。B大学を降ろしてA大学が勝ったことにしろ」と言うのだった。
追って直ぐに東京から制作プロデュサーが飛んできた。旅館の広間に学生達を集めて「無かったことにしてくれ」と説明するプロデュサーを見る学生達の顔、あの場の空気は忘れられない。大人を嫌いになった瞬間だったろう。
両大学の学生達は、当然覚めてしまい、「ヤラセは出来ません」ときっぱり断って降りた。困ったのはテレビの側だ。仕切り直す為に、僕らもその日のうちに東京へとんぼ返りとなった。
その気まずい帰り支度の最中、学生達六人が僕のところへ来て、「橋口さんと最後までレースを続けたかったです」と言ってくれた。
僕は、「僕の映画では絶対こんなことはないから」と言うのが精一杯だった。まだ、『二十才の微熱』を撮る前、28歳の頃の話だ。
 その後、番組をどう仕切りなおしたかというと、仕込みの学生を雇って、ヤラセのレースを撮り直していくのだが、他の太平洋、中部コースの学生達は何も知らずにレースを続けているのだ。青森でのゴールは、本当にバカバカしいものだった。
事情を知らない他コースの学生達が、ゴールへ駆け込んで来る。それを待ち受けて、仕込みの学生達も駆け込んで接戦を演出する。スタート時と違う学生が一緒にゴールしてくるので何も知らない学生達は、みんなキョトンとしている。
それを慌てて引き離すと、プロデューサーが、学生達に向かって「この事は、新聞に投書しないように」という口止めもする。
一緒に仕事をした日本海担当のカメラマンは、「俺は二十年テレビの仕事やってるけど、こんなクソみたいな仕事は初めてだ」と吐き捨てていた。
女優とやった自慢をしていたデイレクターは、「これで、俺は〇〇局に出入り禁止だよ〜」と泣き事を言っていたが全く同情は出来なかった。
 僕はといえば、三ヶ月フルに働いて、貰ったギャラは10万ポッキリだった。それでも何故か途中で降りなかった。
初めて依頼された仕事だった、というのもある。また、その頃から、一度受けた仕事は最後までやり通さなければならない、という生真面目さというのか頑固さが僕にはあった。以来、それは自分の中に信条のようなものとしてあったように思うが、現在は少し違う。今だったら、そんな面倒くさいものに関わるのは時間の無駄だからとっとと降りる。
あれから十数年。映画の宣伝でそのテレビ局を訪れた時のこと。出演番組のスタッフと打ち合わせの最中、三十半ばの男性ディレクターが、「橋口さん、この局は初めてですか?」と聞いてきた。僕は、「いえ、〇〇番組のディレクターをやったことありますよ」と答えた。「あっ、じゃ、そのお話もして下さい」というので、「でも、ヤラセだったんですよ」と言うと、そのディレクターは、「ですよね〜」と悪びれずに笑いながら何もなかったように席を離れていった。
・・これが、堕落という。