2017年1月5日

つくるということ

 先日、ある取材を受けた。2016年の映画シーンを振り返るというザックリとした取材だった。話題になった『君の名は』『シン・ゴジラ』も未見あることを編集者へ伝えると、信じられないといった面持ちで理由を問われた。
あるトークショウでも、「女子高生がパンツ見せて頑張ってる映画は見なくてもいい」と面白おかしく話したつもりが、「『君の名は』を批判するなんて信じられない」なんて書き込みがツイッターに上げられた。
批判するも何も見ていないんだから批判しようがない。食指が動かなかったので見ていないだけだが、ヒット=正義という圧は以前よりも強くなっていると思う。
 僕は、陰湿な世相を陰湿なまま描いたような映画が嫌いだ。自主映画の審査をしていても、表向きはサスペンスやホラーの体裁をとっているが、復讐やいじめ、ストーカー、陰湿な嫌がらせを描いている作品が多い。
僕は、若い監督に必ず尋ねる。「何故この作品を作ったの?。同じような経験があったの?」と。すると決まって、「流行ってるから」と答える。
このことを、ある大手映画会社のプロデューサーに話すと、「世の中が閉塞しているから、それを描いた。それがヒットした。観客が求めている証拠だ」と言う。
 本当にそうだろうか?。
 世界が絶望している。だから絶望を描きました。すると、その負の感情を受け取った人が、「流行ってるから」という理由で絶望を描く。
これは不幸の手紙と同じだと思う。いくら観客が集まろうが儲かろうが、それは作り手が絶対にやってはいけないことだと思っている。
 故・フランソワ・トリフォー監督が言っている。
「現実は混沌としている。映画は、その混沌に道筋をつけていくものだ」と。
絶望を描いても、作り手は本気でその絶望と格闘して、映画としての答えを見出してこそ初めて作品の力が生まれる。絶望を絶望のまま観客に丸投げしてはいけないのである。
 先の取材でも、同じ話になった。
「映画がヒットするということは、それを観客が求めているということ。今の観客は、体力がない。だから『恋人たち』のようなりリアルな映画はつらい。現実が格差社会なのだから、わざわざ映画で見る必要はない」と『君の名は』の援護射撃のつもりで編集者が言う。
(あえて断っておくが、『君の名は』が絶望を描いているとか、『恋人たち』が格差社会を描いているわけでは決してないから勘違いしないで欲しい。)
 何でもかんでも大衆が求めるままに、巣の中で鳴く雛鳥の口の中に餌を与え続けることだけが映画の役割ではないと思う。映画は、娯楽でもあり、また人間も含む世界の美や真実を追求し描くものでもある。単なる逃避に身を落としてはならない。

 映画『二十歳の微熱』の制作の頃は、日本はバブル真っ盛りであった。ノリこそ全て、明るい事は正しい、暗いことは悪。そういった風潮の中で、「16ミリの映画、新人の監督、無名の俳優、しかもホモの映画なんて誰が見るんだ」と思われていた。
その中で僕が思っていたことは、「みんなとノリを合わせている人達の中には、本当の自分は違う」ということを言えない人達がいるはずだ。そういう人達が『二十歳の微熱』を見てくれれば共感して貰えるはずだとの確信があった。そして、結果は大ヒットである。
現在のトランプ現象みたいなものだ。表向きはヒラリー支持を口にしているが、その心はトランプ支持だった、というわけだ。
 映画『恋人たち』も、現在の日本映画のメインストリームにはそぐわない企画のはずである。僕は、制作前に松竹ブロードキャスティングの深田誠剛プロデュサーに言ったことがある。
「これは100人が見る映画にはならないかも知れない。しかし、100人のうち一人か二人でもこの映画を必要としている人がいるはずだから、僕はその人たちのためにこの映画を作ります。それでもいいですか?」と。
深田プロデューサーは、「いいです」とはっきり答えられた。だから、映画『恋人たち』は生まれたのである。
その結果は、制作前には想像もつかなかった大成功を収めたのである。
もし、先の映画プロデューサーや、編集者の言う通りだとすれば、『恋人たち』は観客に見向きもされなかったはずである。
映画にとって作り手の意思というもの。そして、作り手が何を信じて物を作るのかということが、いかに大切かと思うのだが違うだろうか?。