日本映画史に輝く名作『二十四の瞳』をはじめ、 ヴェネツィア国際映画祭正式出品の傑作『楢山節考』、 日本初のカラー映画『カルメン故郷に帰る』、米アカデミー賞外国語作品賞ノミネート『永遠の人』など数々のヒット作を生み、世界が認める功績を残した木下惠介。
日本映画最盛期に、黒澤明と共に人気・評価を2分し、日本映画界の一時代を築いた天才監督。
2012年12月5日、その天才の生誕100年を迎えました。
日本人の強さ、弱さ、美しさ、喜びや悲しみといった、本当の人間の姿をフィルムの中に描き続けた木下監督。小豆島を舞台にした1954年に公開の『二十四の瞳』は、同年あの『七人の侍』を抑えてキネマ旬報第一位に輝き、今尚、日本映画界において不朽の名作として讃えられています。
「巨匠 木下惠介展」では、二十四の瞳映画村内の木造校舎にてパネルなどで監督の足跡を辿ります。この機会に、ぜひ木下作品の奥深さを知って下さい。
- 1912.12.5
- 静岡県浜松市に生まれる。
- 1933(21才~)
- 松竹蒲田撮影所現像部に入社。島津保次郎の助監督を務める
- 1943(31才)
- 監督デビュー作『花咲く港』公開<山中貞雄賞受賞>
※同賞は、同年『姿三四郎』でデビューした黒澤明監督と共に受賞
- 1951(39才)
- 日本初の長篇カラー映画『カルメン故郷に帰る』公開
- 1954(42才)
- 『二十四の瞳』公開<米ゴールデングローブ賞外国語映画賞ほか受賞>
『女の園』公開 ※『二十四の瞳』と『女の園』で、キネマ旬報ベスト・テン第1・2位を独占
- 1955(43才)
- 『野菊の如き君なりき』公開 ※回想シーンを白い楕円形のマスクで囲った斬新な手法と泣ける物語が話題に
- 1958(46才)
- 『楢山節考』公開<ヴェネツィア国際映画祭正式出品>
※歌舞伎や文楽の音楽要素を取り入れ、全篇を大型セットで撮影
- 1961(49才)
- 『永遠の人』公開<米アカデミー賞外国語作品賞にノミネート>
- 1964(52才)
- 松竹を退社
テレビドラマ「木下惠介劇場」(TBS)スタート(~67年)
- 1977(65才)
- 紫綬褒章を受章
- 1984(72才)
- 勲四等旭日小綬章を受章
- 1991(79才)
- 国の文化功労者に選出
- 1998(86才)
- 12月30日逝去(享年86歳)
今から58年前、1954年3月、木下惠介(当時41歳)はここ小豆島のこの分教場に立ち、『二十四の瞳』の撮影を始めたのです。
私はこの場所に立った時、突然、監督の「よーい、はい」の声が聞こえてきそうで、わくわくどきどきしてきた思い出があります。
私は小豆島を訪ねて草壁の港についた時、この風景の何処かを木下惠介も高峰秀子さんも見ただろ、と思うと、今に語り伝えられている『二十四の瞳』の撮影秘話の数々が頭をよぎっていきました。
楽しかっただろうな、そして、大変な苦労だったんだろうと。
『二十四の瞳』は日本映画史の金字塔であることは疑いようがありません。何度観ても、映像に、シナリオに、俳優の演技に、新しい発見があります。
いや映画が私たちへ教えてくれているように感じます。
しかし、木下惠介は『二十四の瞳』だけの監督ではありません。私はそのことを皆さんにお伝えしたいのです。
『二十四の瞳』に感動されたら、『女』『女の園』『野菊の如き君なりき』『永遠の人』『太陽とバラ』『楢山節考』『笛吹川』『香華』…いや全ての木下惠介作品を是非ご覧いただきたいのです。
私はシナリオはじめ多くの木下惠介に関する資料を手にするとき、どこかから監督に見られているような気がします。
撮影現場では「バカとグズが大嫌い」と言う事をはばからなかった木下惠介監督は、今もいそがしく私たちに映画の魅力を伝えてくれているのだと思います。
木下惠介記念館 元館長 齊藤卓